安倍の市

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zoom RSS 唐人の捕虜

<<   作成日時 : 2005/04/18 11:26   >>

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聖徳太子について書き込もうと思ったが、しばらくやめようと思っている。聖徳太子については古代から現在に至るまで様々な研究がなされ、また太子に関する書物も数多く、とても簡単に論ずるわけにはいかない。取りあえず大山誠一氏の説を元に私見を述べるつもりであったが、それとても簡略化して話すことはとうてい難しい。他にも古代史で興味があることもあり、聖徳太子に関してはおいおい述べていきたいと思う。

最近の情勢では日中間でトラブルが起きているようだが、古代においては日中の間は非常に緊密な関係を保っていた。しかし古代においてもまた平和的交流ばかりでなく、お互いに戦闘を交えた時期もあった。百済の復興をめぐっての戦い=白村江の戦いは日本が中国と戦った初めての事件ではなかったか?

660年、百済は唐・新羅連合軍のために滅亡した。しかし百済の遺民たちは百済復興運動に立ち上がり各地で抵抗運動を続けていた。特に百済王家の縁類にあたる鬼室福信の抵抗は激しいものがあった。福信はその抵抗運動のシンボルとして当時日本の人質となっていた百済王の息子・豊璋を国王として迎え再興をしたいと倭国に申し出をしてきた。これに応えたのが、斉明天皇と中大兄皇子(天智天皇)の親子である。

斉明天皇と中大兄皇子は豊璋を百済国王として帰国させると共に、百済救援軍を組織し軍事援助を行おうとした。しかしその途中で斉明天皇は突然の不慮に合い亡くなってしまう。しかし後を引き継いだ中大兄皇子は豊璋を帰国させ、救援軍を派遣する。
ところが帰国した豊璋は抵抗運動の中心人物の鬼室福信と折り合いが悪く、仲違いして福信を殺してしまう。さらに倭国の軍隊も唐・新羅連合軍との戦いに破れ、結局は百済復興の道も遂に途絶えてしまった。

この一連の騒動の中で興味を引くのは、福信が豊璋の帰国と倭国の援助を乞うために、唐軍の捕虜を倭=日本に送ってきたことである。日本書紀によればこの唐人の捕虜たちは美濃の国の不破郡と方県郡に配置されたといわれている。

後の壬申の乱の時、大海人皇子(天武天皇)は不破に至った時に、この唐人たちを召して戦術について諮問したという。不破郡には通訳の意味の曰佐(おさ)と思われる「表佐郷」があり、方県郡には「大唐(もろこし)郷」があった。

彼らはこの地に土着し、おそらく倭人の妻を迎えて後の日本人になっていったのだろう。戦国時代の美濃の国人、例えば稲葉一鉄や竹中半兵衛には彼らの血が流れているのかもしれない。

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