アクセスカウンタ

プロフィール

ブログ名
安倍の市
ブログ紹介

zoom RSS ブログ 新着記事

タイトル 日 時
継体天皇の大和入り
息長氏と和邇氏について考察してきたが、両氏族が深い繋がりがあるというのはもはや定説といってよいであろう。そうなると武烈天皇で仁徳系の系統が断絶した時に若渟毛二俣王系の継体天皇が天皇として迎えられたことも納得がいく。 ...続きを見る

ブログ気持玉 0 / トラックバック 2 / コメント 12

2005/07/03 12:27
和邇氏と息長氏
息長氏の成立をみると和邇氏と天皇家との二重三重の姻戚関係によって生まれたことがわかる。またその記述が応神天皇以前の歴史として記述されていることからわかるとおり、非常に古い時代のことであることも確かなようだ。もちろん『古事記』の記述が真実であったかどうかはわからない。「日子坐王」という人物も神の娘と結婚しているところをみると伝説的人物という他はなく、また「ヤマトタケル」も伝説の人物であるというのは定説である。しかし伝説というのも何らかの真実を反映しており、和邇氏が息長氏と深い関わりがあったことは間... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2005/07/03 11:33
息長氏という氏族について
敏達天皇の最初の皇后の広姫を出したのが息長氏です。この息長氏、『古事記』を読むと二つの系統があることがわかります。 ...続きを見る

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 1

2005/07/03 10:31
石上神社とフツヌシ神
現在の天理市にある石上神社は和邇の集落からほんのわずか南にある。石上神社といえば物部氏が斎祭った神社として有名だが、日本書紀には次のような別伝が記されている。 「垂仁天皇の時、その皇子である五十瓊敷皇子は茅渟の菟砥の河上で太刀一千口を造らせ、その太刀を初め忍坂邑に納め、次に石上神社に移し納めた。この時に神託があり「春日臣の一族である市河という者に治めさせよ」とあったので、市河に命じて治めさせた。この市河は今の物部首の祖先である」と。 ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

2005/07/01 02:19
再び、和邇氏について
和邇氏というのは非常に古い氏族である。大和の和邇にある東大寺古墳は四世紀の前方後円墳であるがこれは古墳時代前期にあたる。日本書紀に出てくる氏族の中でこれほど古い時代からわかっている氏族はないと思う。例えば物部氏などもはっきりわかるのは五世紀になってのことだし、蘇我氏などは6世紀のことである。四世紀に既に繁栄していたと思われる和邇氏が、畿内はもとより日本列島の各地に多大な影響を及ぼさなかったとは思えない。 ...続きを見る

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 1

2005/07/01 01:35
藤原鎌足は百済系なのか?
よく藤原鎌足は百済系だという。これは彼が仕えたとされる天智天皇が親百済の政権であったからと思われる。場合によっては鎌足は百済王子であった余豊璋であるともいわれるが、確かな証拠はない。余豊璋は「白村江の戦い」の後、高句麗に逃れたともいわれ鎌足の否定するのは無理があろう。 ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 3

2005/06/11 11:33
藤原不比等と持統天皇の関係
藤原氏の祖は藤原鎌足で、その死の直前に天智天皇から「藤原」の姓を賜ったところから始まっている。藤原不比等というのは彼の次男である。長男である定恵は出家して孝徳朝の遣唐使で唐に留学し後に帰朝したが暗殺されている。この暗殺事件は百済人によるものと言われているが謎が多い。いずれにしろ不比等が鎌足の後継者として唯一の人物であったことは間違いないであろう。 ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 9 / トラックバック 1 / コメント 0

2005/06/11 10:35
橘三千代と法隆寺
聖徳太子が建立したと言われる法隆寺には様々な謎が存在してます。そのうち学会を二分したのは現在の法隆寺は再建されたものか、元からあったものかという論争です。この論争は明治時代にはじまり、ほぼ100余年もの間論争が続きようやく再建論で決着を見ました。その間、若草伽藍の発見により再建論に決着したと思われましたが、近年、「年輪年代法」という科学的な測定方法によって、五重の塔の心柱の伐採が594年と判明したことによって再び「非再建論」が唱えられるようになりました。しかし「再建論」を決定づけたのもまたこの「... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 1 / コメント 0

2005/06/07 10:45
梅宮神社について
現在、京都市右京区梅津フケノ町に鎮座する梅宮神社については、県犬養三千代が創建したとされ、平安時代初頭までは京都府綴喜郡井出にありました。井出は木津川沿いにあり、橘諸兄が別荘を構えていたことで有名です。この地は平城京に近く、奈良山を越えればすぐです。聖武天皇はこの井出の近くに都を遷し恭仁京を造営しようとしましたが、それはおそらく橘諸兄の影響があったためでしょう。 ...続きを見る

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 1

2005/06/05 05:21
「橘」姓と秦氏
三千代が元明天皇から賜った姓はなぜ「橘」だったのか? 元明天皇はこの姓を下賜する時に、杯に橘に花を浮かべ「橘は果物の中でも最高のもので、人々の好むものである。枝は霜雪にもめげず繁茂し、葉は寒暑にあってもしぼまない。光沢は珠玉とも競うほどである。金や銀に交じり合っても、それに劣らず美しい。このような橘にちなんで汝の姓として橘宿禰を与えよう」と言ったといわれます。しかしそれだけが理由だったのでしょうか? ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 2 / コメント 2

2005/06/05 02:10
橘三千代の子供たち
736年、県犬養三千代の二人の息子、葛城王と佐為王がしたためた上奏分には、彼女が天武朝から元明朝にかけて出仕し奉仕したことが述べられています。この間、彼女は持統、元明女帝に信頼され、特に元明天皇との信頼関係は篤く、その即位の大嘗祭のすぐ後の「豊の明節会の宴会」の席で天皇から「橘」の姓を賜っています。この後、彼女は県犬養橘三千代あるいは縮めて橘三千代と呼ばれています。 この「橘」姓はやがて息子の葛城王と佐為王とに引継がれ、それぞれ橘諸兄と橘佐為と名乗るようになります。 ...続きを見る

ブログ気持玉 0 / トラックバック 1 / コメント 0

2005/06/04 21:01
県犬養三千代について
文武天皇の幼名は珂瑠(軽)ですが、この名前の由来はおそらく県犬養三千代に因んだものでしょう?県犬養三千代は軽皇子の乳母といわれています。軽皇子が683年生まれ、三千代の長男・葛城王(後の橘諸兄)が684年生まれで、月が接近していたのでしょう、彼女が葛城王を生んでまもなく乳母となったと思われます。三千代が出た県犬養氏は安閑天皇の時代に屯倉の管理を任された記事がみえ、特に河内石川沿いの桜井屯倉との関わりが深くその本貫は河内の古市にありました。この古市周辺には応神陵といわれる誉田山古墳をはじめ多くの古... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2005/05/28 17:31
『日本書紀』から『続日本紀』へ
697年に持統天皇は文武天皇に譲位します。『日本書紀』の記述はこれをもって終わり、その次の歴史は『続日本紀』に引き継がれます。『続日本紀』は文武天皇の即位に始まり、桓武天皇の延暦10年(791年)までの歴史がつづられています。つまり『続日本紀』のほとんどは奈良時代を扱っていると言えます。また文武天皇の大宝元年、大宝律令が完成し、その結果古代豪族の連合体であった国家が律令制に基づく官僚国家に変貌し、また各豪族間の力がそがれ藤原氏だけが抜きんでて権力を掌握していく時代でもあります。 ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2005/05/28 10:59
女帝の時代
持統天皇が権力を持っていた七世紀後半から八世紀初頭、ちょうど同じ時期に中国でも武則天という女性が皇帝となっていました。武則天は最初、唐の太宗の後宮に入るが、太宗でなくその皇太子であった高宗に気に入られ、太宗亡き後高宗に召されて皇后となります。さらに高宗亡き後息子の中宗が即位しますが、政治の実権は自分が握り息子たちを次々と傀儡皇帝に仕立て最後には唐王朝を乗っ取って周という国を建てます。中国史上最初にして最後の女帝です。しかし皇太子にはかつての唐皇帝であった中宗を置いたのですから、周は彼女一人のため... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 2

2005/05/27 00:56
持統天皇の幼名−うののさらら−
「盧鳥野讃良(うののさらら)」というのが持統天皇の幼名である。(「盧鳥(う)」は一字)。この名前は古代河内国の更荒郡盧鳥野邑(さららのこおり うのむら)に因んだものであることは間違いない。皇子女の名前については養育氏族の名前か地名を付けるのが普通であるから彼女の名前もその法則に則ってはいる。しかし地名を二段にわたって付けている例が他にあるのだろうか?彼女の姉の大田皇女にしても、また父の葛城皇子にしても地名は一段である。その意味では「盧鳥野讃良」という名前は珍しい。本来は盧鳥野皇女と呼ばれていたの... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 17 / コメント 0

2005/05/27 00:24
偉大な政治家である持統天皇
696年7月高市皇子が薨去した。それを受けて皇族諸王群臣らは時期皇太子を協議する。衆議は紛糾するが大友皇子の遺児である葛野王の一言で軽皇子を皇太子とすることに決定する。それは持統天皇の意志でもあった。 翌年2月、軽皇子は立太子する。そして8月、持統天皇は軽皇子に譲位する。生前譲位は皇極天皇以来二人目である(安閑天皇が継体天皇より生前譲位を受けたという説があるが定かでない。またそうだとしても死の直前の譲位であり、皇極・持統天皇のように元気なうちの譲位ではない)。また彼女は譲位し、太上天皇と呼ばれ... ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2005/05/25 11:41
春過ぎて 夏来るらし・・・・
柿本人麻呂の高市皇子への挽歌を改めて読んでみると、持統天皇が詠んだ有名な歌の解釈が別の趣を持ってくる。既に書いたように高市皇子の挽歌には【使はしし 御門の人も 白たえの 麻ごろも着】とある。それと高市皇子の宮は「香具山の宮」と称された。このキーワードを探ってみれば、自ずから持統天皇の次の歌が頭に浮かぶ。 【春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣ほしたり 天の香具山】 ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2005/05/23 10:54
「百済の原」と「城上の宮」
『万葉集』に柿本人麻呂が高市皇子に捧げた挽歌がある。かなり長い長歌であるが、後半部分をこう歌っている。 ...続きを見る

ブログ気持玉 / トラックバック / コメント

2005/05/22 21:50
高松塚の被葬者 ・高市皇子の場合
高市皇子は天武天皇と胸形君徳善の娘・尼子娘との間に生まれた。天武天皇にとっては初めての男子である。壬申の乱は高市皇子が19歳の時に起こったが、彼は天武天皇から全軍の指揮を任されて乱に勝利している。20歳で蘇我本宗家を滅ぼした中大兄皇子と並んで7世紀における若き英雄である。乱の規模を考えると中大兄以上かもしれない。 しかし乱後の彼の立場は微妙である。天武天皇の皇太子には正妃である菟野皇后(持統天皇)の子の草壁皇子が立てられたが、血統、能力ともに優れた大津皇子がいた。 ...続きを見る

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 1

2005/05/21 15:01
高松塚の被葬者
高松塚古墳の被葬者としては、刑部皇子、弓削皇子、高市皇子、物部麻呂、紀麻呂、百済王善光などが挙げられている。しかし副葬品に三種の神器があり、また今年になって古墳の高さが「薄葬令」で定められた王(みこ)以上に当たることから、物部麻呂、紀麻呂、百済王善光である可能性は低くなった。 ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 1

2005/05/21 01:25

続きを見る

トップへ

月別リンク

安倍の市/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる